『科学哲学の冒険-サイエンスの目的と方法を探る』戸田山和久

 なぜ科学は新しくてかつ正しいことを言えるのか。科学哲学の基本的問題の一つは、どんなに自由に理論的概念を構成して進めていっても科学は決して経験から遊離しないのはなぜかという問題である。
(p45-46)

もともと自然哲学の枠組みの中にあったはずの科学。それなのに、いつのまにやら科学と哲学というのは全く別のものの様になってしまった。そんななか、哲学の方面から科学の目的や方法について探るのが、著者の立場であるらしい。
 なぜ科学は有用なのか。科学とは何を明らかにすることなのか。科学とオカルトの違いとは? 科学が正しいように見えるのって、実は偶然なんじゃないの? 科学は原子や電子、光速に近い速さでの物体の振る舞いなど、目に見えず、我々の日常生活からも縁遠い出来事についても語っているけれども、その正しさを保障するものってなんだろう?……これらの問題、ついつい自明のものとして考えがちだけれども、きちんと筋道を追って考察してみると、科学哲学の世界でも完全な決着は付けられないほど、やっかいな事例だったりするのだ。
 科学の世界では「帰納」を使って推論を行う。しかし帰納を正当化することは、実はとても難しいことなのだ。ガリレオ・ガリレイは落体の法則を発見した。以来、今日まで我々の世界は「落体の法則が正しい」かのように振舞ってきた。でも、もしかしたら今、この瞬間から、突然落体の法則が当てはまらなくなるかもしれない。もしかしたら月の裏では落体の法則が当てはまらないかもしれない。もしかしたら今まで、落体の法則を試験するたびにとてつもない偶然が続きまくっていて、そのため法則が正しいように見えただけなのかもしれない……。そんな馬鹿な、と思うかもしれないが、帰納によって導かれた法則を正当化する根拠は、論理的に何も無いのだ。
 んで、カール・ポパーはこの問題について、そもそも科学に帰納は必要無い!として「反証主義」を掲げた。まず科学者は世界がどうなってるか、推測して仮説を立てる。しかし実験によって仮説が反証されると(つまり仮説が間違ってたら)それは捨てられる。そして反証に失敗した仮説は生き延び、安定する……つまり科学は、推論が正しいかどうかは確定できないけど、間違っていることは確定できる、ということなんである。そしてこれは、科学とニセ科学との区別を付けるのにも役に立つ、というのがまた面白い。創造論ID論)しかり、大抵のニセ科学というのは、反証すること自体が出来なかったりする(例えば「世界の創造者」が存在しないことを証明することは不可能だ)。がしかし、反証できないという事イコールそれは科学では無い、ということでもある。科学は「間違えること」によって現実との接点を作って行くのである。
 また、著者は帰納の抱える問題について、正当化はできないが擁護なら出来るかもしれない、として次のような答えを用意する。

 帰納を使って科学をやってよさそうな究極の理由は、宇宙のわれわれのいる場所が、帰納が役に立つような場所だからだ。われわれのいる場所が、ありとあらゆるものがもっとカオス的で、最初の状態がちょっと違っただけで、そのあとどうなるかが劇的に違ってしまうような減少に満ち溢れているのだったら、帰納という情報処理を行う生き物は進化してこなかったろう。
(p266)

 要するにこの世界が、科学が使えるような世界でなければ、科学という考え方自体が生まれなかったろう、ということ。う〜む……すっきりしないような……でも確かにそんなものかという気もするなあ……。
 とにかく科学的な思考とは何か、科学的な方法とは何か、突き詰めて考えさせてくれるこの本、実に刺激的でした。個人的な経験から言えば、大学で科学をやってるような人でも科学的な思考の出来ていない人は多かったりする(端的な例は、オウム真理教でイロイロやった人たちだろう)。そういう人たちに、そしてこれから科学の道を志す人たちに、この本、是非読んでもらいたい。もちろん、自分も……自戒も込めて、この本の内容を消化していきたいな。

科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス)

科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス)