『ダーウィンと原理主義』メリル・ウィン・デイヴィス

 ポストモダン叢書というシリーズ名や、タイトルからもなんとなく中身が想像できるが、ようするに「科学者も、キリスト教を信じている敵と同じように原理主義者になりうるのではないか(p5)」ということを主張している本である。著者は人類学者であり、BBCの宗教番組のプロデューサーも勤めていた人物らしい。
 著者はまず、科学と言う方法論とキリスト教神学との間の密接な関係を強調してみせる。例えば、今でも創造論者などによって主張される事のあるBC4004年と言う創造年、これは大主教ジェームズ・フィッシャーによって計算され、1701年に欽定訳聖書の欄外に注記された事でキリスト教世界に定着したのだが、この「天地創造の年代を、資料から計算によって求める」という発想そのものが、理性の時代における合理主義を反映したものであったと言う。
 また一方では、ニュートンデカルトの唱えた機械論的な宇宙と言う概念もまた、宗教的信念と科学の統合を目指したものであった。神と創造物とのあいだの序列を為す中世的思考が、歴史における序列と言う概念を生み、進化論を生み出す母体となったということも有名である。そして「奇跡(絶え間ない神の直接介入)を持ち出さずに神の書物である自然界を理解することは、理性を基盤とした改革派の宗教の中心目的でもあった(p15〜16)」。
 本書でもこうした宗教と科学との歴史的関係性を語る部分は結構面白いが、更に筆が進み、ドーキンズらの一派をダーウィニズム原理主義と決め付けるあたりになると、ちょっと承服しかねるものを感じる。ポストモダンという言葉から連想する、悪しき相対性の罠にはまってしまっているようにしか見えない。このあたり著者も、キリスト教原理主義が「科学も多数の物語のひとつに過ぎない」とポストモダニズムの唱える相対性を悪用している、と非難はしてみせているが、ドーキンズの論を「その様な考え方によってつくられた世界は、良心的な理性が絶滅の兆しを見せている世界」とまで言い切っているようでは、悪用されても仕方が無いというか……。
 このことについては佐倉統が巻末の解説で「創造論アメリカ独自のもの。創造論者の方がはるかに独善的なことが多く、本書の論調が迫力を書いた奇麗事にしかみえないのは仕方ない」ときっちりと切り捨てていたりして面白い。というか、詳細な読書ガイドもついているので、本文よりも解説を読んだ方が為になるかも知れない。以下、佐倉統による解説より。

 原理主義的であったりしたら、用語上の定義からして、それはもはや科学でありえない。(p99)
 科学原理主義を打破するためには、別の科学的な手法が必要なのであって、創造論が必要な訳ではない。(p103)

 その上で、科学と宗教、どちらにも守備範囲の明確化と、日常生活世界とのつながりを保とうとする努力が必要である、とまとめているが、自分も全面的に同意したい。

ダーウィンと原理主義 (ポストモダン・ブックス)

ダーウィンと原理主義 (ポストモダン・ブックス)