『ヴェニスからアウシュヴィッツへ ユダヤ人殉難の地で考える』徳永恂

1666 ヴェニスからアウシュヴィッツへ ユダヤ人殉難の地で考える (学術文庫)
和辻哲郎文化賞受賞のノンフィクション。アオりによれば識者絶賛との事だが、個人的には何故そんなに評価されたのか、読んでみても良く分からなかった、というのが正直な感想。
ヨーロッパにおける反ユダヤ主義の源流を求め、ゲットー発生の地、ヴェニスからスペイン、ポルトガルそしてアウシュヴィッツへ……ユダヤ人迫害の地を巡る旅。紀行文として書かれた第一部は、実際なかなか興味深く読める。特に、著者がヴェニスのゲットーを訪れるシーンは印象的だ。ユダヤ人排斥が始まるや、狭い区画に押し込められる人々……増加する人口を収容するために建物は上へ上へと伸びて行き、陽光を隠してしまう。明るい日差しを連想する地中海沿岸地方において、ゲットーの薄暗さは印象的だ。高い建物に挟まれ、はるか頭上に洗濯物の翻る路地を歩きつつ、生涯海を一度として見ること無く逝ったという老ユダヤ人に、著者が思いを馳せる場面は絵画的で心に残る。
そして、イベリア半島レコンキスタと共にやってきたスペイン人に、改宗か追放かの二者択一を迫られるユダヤ人たち。追放される人々の小船の中に、一見それとは対照的に、華々しく出航するコロンブスの船があった。実は、コロンブスの探検行を後押ししてきたのはスペイン宮廷の改宗ユダヤ人官僚たちであり、やがてアメリカを「発見」することになるこの航海は、ユダヤ人たちの最後の希望を背負ったものでもあったのだ。……だが、追放された人々は、まだ幸運だったのかもしれない。改宗者達には、今度はキリスト教のインサイダーとして、より激しい異端審問が待っていたのだから(悪名高い異端審問官トルケマダが改宗者だったという事実は、切支丹迫害におけるフェレイラを思い起こさせるものがある)。
キリスト教社会への同化のチャンスを与えられたことで、更に激しい迫害を招いてしまったという、この皮肉な事実は近代においても繰り返されることになる。「万民平等」を唱える啓蒙主義の勃興により、ゲットーから開放されるユダヤ人たち。しかし「平等」であるということは「皆と同じ」ということであり、啓蒙主義はその思想ゆえに「同化しようとしない」者への憎悪と、ユダヤ人社会の分裂を招くことになる。
おそらくこのくだりこそが本書のキモなのであり、例えばアメリカの文化的多元主義プロテスタンティズムとの確執にも合い通ずる、現代的な問題提起にもなり得たのだと思う。しかしこの本では、結局その辺りは軽く流されてしまい、焦点が結ばれることは無い。結局、感傷的な紀行文としての筆致のまま、第一部は終わってしまう。
そして、続く第二部はマルクス斉藤茂吉ユダヤ人観を巡る文献学的な論文だが、あくまで彼ら個人の思想の問題に終始しているので、第一部とほとんど関連が無い。はっきり言って頁合わせに入れただけなんじゃ無いかと思うほどだ。それでもマルクスが、ユダヤ人家庭に生まれつつも、ユダヤ人としてのアイデンティティーを生涯持つことが無かったという論考はそれなりに興味深い(しかしマルクスの「ユダヤ人問題によせて」という論文を読んでいることを前提にしての議論には参った。研究者向けの専門書なのか一般向けの本なのか、筆致を統一して欲しい)。一方斉藤茂吉の方は、本当にどうでも良い論文。要するに「茂吉は動乱のドイツに留学したのに、社会的な関心を持とうとしなかった」というだけの文章であり、しかも「結局茂吉は東北の農民気質のままだった」などという趣旨の文章で締めくくられているのを見ると、この著者の持つ別種の差別意識の存在さえ勘ぐりたくなる。わずかに、当時の日本人留学生のユダヤ人観が窺えるのが興味深いが、それだけのためにこの頁数はいらないだろう。
という訳で、なんだかピントがどこに合ってるのか分かりにくい本だったが、それなりに考えさせられることは多かった。きっと、その辺りが評価されたのだろうなあ、たぶん。