『唯脳論』養老孟司

唯脳論 (ちくま学芸文庫)
 解剖学者、養老孟司の代表作。この人の単独著作を読むのは初めてなのだが、どうも文体が合わないというか、論理の飛び方や文章のリズムが自分に合わず(あと、時々出てくる断定調にも違和感があり)、読むのに難渋した。とはいえ、内容自体は知的刺激と、想像力を刺激する示唆に溢れた好著だと思う。
 基本的には純粋な科学書というよりは、哲学書思想書に近いところがある。「人間は脳でモノを考えているのだから、人間のつくる全てのモノは脳にその由来がある」という考えは、心身二元論を信奉しているのでもない限り、そう新奇でも、抵抗のある考えでも無いだろう。実際、この本には、耳目を引く新しい科学的事実や、革新的な論議が収められているわけでは無い。そうでは無く、脳に還元する<モノの見方>を提示して見せるのが主眼なのだろう。(そういう意味で、id:zeroset:20040924のコメント欄でスカポン太さんが仰ってたように、「基本書」という言葉が相応しい本である)
 唯脳論と、唯心論や唯幻論との最大の違いは、その基盤を、脳の構造と機能という、言わば形而下的な事象に徹底的に還元して置いていることである。言語、科学、芸術といった人間の作り出した文化は、全て脳内にその基盤を持っている。例えば、“直線”という概念は、その由来を視細胞の配置とそれに伴う視覚中枢での情報処理に依存していると考えることが出来る。もし、視細胞の配置とその興奮パターンによる“直線”を持っていなければ、人間は自然にその概念を得ることは無かっただろう。もちろんその場合でも、数学の発展に伴って、直線を“発見”することはあるだろうが、我々が例えば虚数に感じるのと同様の“不自然さ”を感じる概念となるんじゃないだろうか(少なくとも、こうも環境が直線だらけになることは無かったろう)。脳内構造が人間の文化を規定しているのであり、文化や都市は、言わば“拡張された脳”なのだ。
 これらの記述からは、色々と想像を膨らませられて楽しい。例えばベイリーの短編SF『宇宙の探求』には「基数が一でない数学を持つ生物」が出てくるが、この生物の脳の構造はどうなっているのだろう、とか。逆に、人間の脳内には<二倍量>にだけ反応する神経がある、らしいのだが、これが違う値をとっていたら、数学や芸術(例えば一オクターブは周波数が二倍になる音階である)はどう変っていたろうか……など。
 とにかく、色々と考えさせられる本だった。昔、若き筒井康隆フロイトにかぶれ、世の中のありとあらゆることをフロイト的に解釈して、周りの人に辟易された、というエッセイを読んだことがある。同様に、この“唯脳論”にも、様々な物事の再解釈を促す楽しさと魅力がある。もっとも、あまりにも魅力的でありすぎる故に、「面白いけど、本当かな?」と警戒感を誘ってしまうのも確かではある。最終章の身体性と脳の関連に関する論述などは、その一例。例えば著者は“性と暴力”を世界の脳化に対抗するものとして位置づけているのだが、これってどうなのだろう。どちらも“身体的”であるのは確かなんだが、同時に脳的な要素も強いように思うのだが……。また、“食”はどうなんだろうか。あと、日本の文化に対する考察にも(こちらも無茶苦茶魅力的であるが故に)、眉に唾を付けたくなるところがある。『大江戸死体考』ISBN:4582850162みようかな……。
 ところで、『唯脳論』が、脳と神経系の構造―要するに、カタチ―に拘る所から来ているのは、いかにも解剖学者らしい発想なんじゃないだろうか。読む前は、なぜ脳神経学者で無く、解剖学者が脳の本を?とも思っていたのだが。もっとも、逆に唯脳論的な観点からは、本作は視覚中枢的な発想に偏りすぎているとも言える。そのあたりは、著者が(『唯脳論』執筆中に)構想していたという、進化に関する著作でフォローされているのだろう。