『ひとりっ子』グレッグ・イーガン

 日本オリジナル編集によるイーガン第三短編集。今回もまた、傑作ぞろい。「真心」「ふたりの距離」「オラクル」以外は既読だったけれども、再読しても面白さは変らなかったのは、さすがだと思う。

行動原理

 妻を殺されたものの、どうしても復讐に踏み切ることが出来ない男。心を一時的にコントロールする技術を使って、殺人への抵抗を無くそうとするが……。次の「真心」とともに、集中では平易な部類に入る話なので、導入としては相応しい話だろう。しかし、読後感は重い。

真心

 人の気持ちは移ろうもの。どんなに深く愛し合う二人でも、いつかその気持ちが色あせてしまうかも知れない。そこで、テクノロジーの力により「愛し合う気持ち」を固定した夫婦のお話。二人の気持ちが身に染みて理解できるだけに、皮肉な結末が印象的。変化を恐れるもの、過去や未来に拘泥してこの「いま」を蔑ろにするものへの、イーガンの視線は厳しい。

ルミナス

 恐ろしく大きな数、それも未だかつていかなる物理現象によっても裏打ちされることのなかった程、大きな数の世界。そこに、我々の数学が通用しない領域がある。この「オルタナティブ数学」を巡る、陰謀と冒険の物語。再読二回目、でもやっぱり面白い! 世界そのものを変えることが出来る、恐るべき秘密を巡る逃避行。光そのもので作られたスーパーコンピュータ、ルミナス。世界消滅の危機。そして想像を絶する知的存在との邂逅……これにワクワクしないで、何にときめけというのか。文句なしのベスト・オブ・ベスト。

決断者

 あるハードウェアによって、自分の思考のパターンを正確に知ることができるようになった男。彼は何か行動を起こすたびに、脳内で機械的反射を行なう無数のモジュールの存在を認識するのだった。男はその中に、自由意志の中核となるもの、「決断者」を見出そうとするが……。結局そんなものは無く、自由意志など幻想だった、という落ち。後のイーガンなら、真実を知った「その後」も書いただろうが、この話ではいきなり突き放されたような印象で、ちょっと嫌な読後感が特徴的だ(このあたりは「行動原理」も同じ)。S-Fマガジンで読んだ時はあまり面白くなかったが、再読すると、ディテールもはっきり理解できて印象が変った。脳内の「百鬼夜行」をビジュアル化するイメージが鮮烈。

ふたりの距離

 この話は「真心」の姉妹編と言ってもいいかもしれない。こちらのカップルは、お互いの心を融合し、一時的に同一人物となる実験に参加する。その結果、それぞれの心を完璧に理解することが出来るようになったが……。理解できないからこそ他人なのであり、そこに意味があるのだ、というお話。このアイデアはやっぱり凄いよなあ。

ラク

 多世界解釈をネタとした話で、次の「ひとりっ子」と繋がりのある話。予備知識無しで読んだので、ある登場人物が「ひとりっ子」のヒロインだと気付いたときには、ちょっと衝撃を受けた。「ひとりっ子」同様難解だが、ヒロインのやろうとしていることには胸を打たれる(これを読んでから「ひとりっ子」を再読、最終フレーズを読むとぐっとくる)。それにしても登場人物の一人、ジャック(「ナルニア国物語のC・S・ルイスをモデルとしている)の描写は容赦無い。現実のルイスも、こんな人物だったんだろうか。

ひとりっ子

 量子力学多世界解釈では、人が何かを決断するたびに、宇宙を分岐させることになる。人生の様々な局面で我々がある決断を下したとき、「別のバージョンの宇宙」には別の決断を下した「自分」がいて、こうした無数の決断の結果として、違う人生を歩む無数の「自分」が存在する事になる。この現象を回避できる量子コンピュータ、クァスプを組み込んだ人造人間の少女、ヘレンの物語。再読だが、やっぱりクァスプの原理をよく理解できなかったのは情けない。作品集全体のテーマを総括する好短編。


 今までのイーガンの短編集では、収録作品のテーマ的に一番統一感があったように思う。河出書房新社から発売予定の『TAP』が本当に楽しみだ。

ひとりっ子 (ハヤカワ文庫SF)

ひとりっ子 (ハヤカワ文庫SF)

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