『敵』筒井康隆

 渡辺儀助は75歳の元大学教授。職を辞してからは貯金を取り崩す生活を続けているものの、生活水準を落とすつもりは無く、貯金が無くなった時には潔く自裁するつもりである。妻に先立たれて十年、惚けて老醜を晒すことを何よりも畏れる儀助にとって、それが最善の生き方だった。ところがある日、儀助が毎日読んでいるパソコン通信のBBSに奇妙な噂が流れ始める。「敵です。皆が逃げはじめています」……
 安部公房の『箱男』冒頭は、すっぽり被って路上生活を行うための「箱」作り方マニュアルになっている。あんまり詳細に書いてあるのでついつい本当に作ってみたくなるのがミソで、実際、情報量の多さはそれだけで人を魅了するものがあると思う。本書も同様に、主人公・儀助の生活の事細かな記録で成り立っていて、それは毎週の買い物リストから自慰ネタの列挙にまで至る。ほとんど情緒的な文章を交えず、散文的に事物を列挙してるだけなんだけれど、これがまた相当面白い。厳格に自分を律し、浪費はしない。しかし自らの品位を保つために最低限必要なものは、きっちりと買う。その結果として金が無くなったら、その時点で死ぬ。こういう生き方自体に魅力があるということは否定しないけれど、「箱男」同様、情報量の多さ自体に魅了されるというのも確かなんだろうな。
 老いさばらえた儀助の精神は、やがてゆっくりと崩壊していく。記述の中に妄想が混じり始め、次第に現実と区別が付かなくなっていく。ここのあたりは筒井康隆の真骨頂。陶酔を誘うような筆致で、とろけるように現実と非現実の境が消失していく。それは死への道程でもあるのだけれど……でも破滅=開放というか、カタストロフィの瞬間にフィクションの「向こう側」にまで飛び出ちゃうのが、昔ながらの筒井作品の快感なんだよなあ。

敵 (新潮文庫)

敵 (新潮文庫)