『サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ』下條信輔

サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ (中公新書)
 『ドラえもん』に秘密道具は数多いが、子供時代、特に強く印象に残った道具に「石ころ帽子」がある。光学的に透明になるのではなく「認識されなくなる」ことにより見えなくなる秘密道具、という発想が驚きだった。さて、これをかぶったのび太が、ジャイアンの目の前でアカンベーとかしてみせるシーンがある。ジャイアンは何が起こってるのか分からないまま、ただ段々と不機嫌になっていったのだが、さて、彼はのび太に「気付く」事なく一体「何」を「どうやって」感じていたのだろうか?
 『サブリミナル・マインド』は臨床的な実例から、上のジャイアンの様に我々が「気付き」無しに多数の事物を無意識的に認知していることを示してみせる。
 病識欠損といって、例えば自分の左側にあるものは何も認識できなくなってしまう患者がいる。もちろん認識の問題以外では正常で、論理的な思考も出来る人である。この患者に左手を出すよう指示すると「ハイ」と答えつつも出さない。実は何故出さないのか、患者は自分でも分からないのだ(左腕の認識を欠損してるから!)。患者の手を取って目の前に示し「これはあなたの左腕です。動かしてください」と言っても動かさない。それどころか「これは自分のでは無く先生の手(だから動かなくて当然)」と答えるという。そこで自分の両腕を示して「ほら、腕がここに二本あるでしょう。だからそこにあるのはあなたの手です。動かしてください」と指摘すると「では先生は腕が三本あるんでしょう。手が3つあるんだから」(!)と答える。そしてなおも動かすよう求めると次のように答えたという。

でもね、先生。私の手が動かないということは、きっと私が手を挙げたくないからじゃないかな。こんなこというと驚くかもしれないけど、とても奇妙な現象が起こるんですよ。手を動かすという動作を避けてさえいれば、(そうでなくてはできない)その動作が出来るような気がする。手を動かさないのはそのせい。もちろん、非論理的で気味の悪い話であることはわかってる。でもこの不可思議さは私の手には反する、だって私の手はとても合理的だから。
(P106)

 別の例で特に衝撃的なのは「分割脳実験」だ。癲癇などの治療のため脳梁と呼ばれる部位を切断された患者は、左半身で受けた情報を言語化できなくなる。そのため左目だけに見える様に単語を提示しても、読むことも理解することも出来ないし、左目だけで見たり左手だけで触った物はその名前を言う事も出来ない。さて、分割脳の被験者の左目だけに見える様にある単語を瞬間的に提示し、その単語の意味するものを、左手だけでテーブルの上のある色々な物の中から選ぶよう指示したとする。この場合例えば「鍵」という単語を提示しても、当然被験者は何が書いてあるか分からないのだが、それにも関わらず左手はきちんと鍵を選び出すのである。しかも、被験者は自分が何をしているのかまったく理解出来ないままなのだ。つまり意識の上では理解できなくても、識域下で正しい行動を取ることができるのだ。また、提示された言葉に従うように、と言った後「笑え」という指示を左目に提示すると(言語が理解できないはずなのに)被験者は笑い出す。しかし彼は何故自分が笑ったのか理解できないので、理由を聞くと「あなたの顔が可笑しいから」などと答えるという。例え正しい行動を取っていても、意識の上ではその行動の過程を認知することが出来ないので「論理的」にそれらしい解釈をして見せたのである。
 上記は何らかの認識異常のある人たちの例だが、その意味するところは健常者にも当てはまることである。そのことを著者はマスキング処理での認知実験など、数々の興味深い実験結果で示してみせる。そして「人間は、意識上では全く知覚していなくても、識域下だけで物事を認知して合目的な行動を取ることが出来る」「そして意識はそれを外側からモニタリングし、解釈を与えている」という結論を出す。
 話は更に「自由意志」というものが本当に存在するのか、というところまで広がり、我々の持っている常識的な人間観を揺さぶり続ける。最終的に、この新しい人間観に従って社会の枠組みを考え直す必要があるのではないか、と問いかける著者の姿勢は刺激的だ。ダーウィンの進化論が新しい人間観を生み出した様に、この分野での近年の発展が、想像もしていなかった人間像を生み出しつつあることを強く実感できる。以前感想を書いた同じ著者の『意識とはなんだろうか』と合わせて、必読。