『パイド・パイパー―自由への越境』ネビル・シュート

パイド・パイパー - 自由への越境 (創元推理文庫)
 1940年夏、ドイツ軍は破竹の勢いでパリへ進撃を開始した。フランスに滞在していた老イギリス人、ハワードは急ぎイギリスへの帰国の途につくが、知り合いの頼みを断りきれず、幼い二人の子供を連れて帰ることになってしまう。ところが運命の悪戯か、ハワードの小さな同行者たちは、旅が進むにつれ次々と増えていくのだった!世話になったメイドの姪、道すがら出合った孤児たち……。占領下のフランスを、老人と子供たちは戦火を避けつつひたすらイギリス目指して旅をする。
 『渚にて』のネビル・シュートによる「静かな」冒険小説。何しろ主人公は70歳の老人、同行者も幼い子供ばかりなので汽車に乗るだけでも一冒険、派手なアクションなど望むべくも無いが、シンプルながらも丁寧な筆致でぐいぐい読ませてくれる。特に子供たちの描写が素晴らしい。駄々をこねる、熱を出す、泣く、拗ねる、吐く、騒ぐ、飛び出すと、みな実に子供らしい意表をついた行動で主人公を苦しめ、物語を盛り上げてくれる。それでいて、あくまで子供たちへの眼差しは暖かく、随所で愛らしい描写が入るので、主人公同様保護者としての視点で物語に入り込むことができる。例えば、しっかり者の少女ローズがバス中で吐いて泣き出す場面などは、最初頼りになるかと思われた子だっただけに「ああ、結局この子も重荷になるのかな」などと思いつつも妙に保護欲が掻き立てられたりもして、強く印象に残る。
 しかしもっとも心に残るのは、主人公の内面的な強さである。捕まれば強制収容所送りの状況で、忍耐強く子供たちを率いて、長い長い旅をするハワード。もちろん、主人公が超人的な精神力を持っているという訳ではない。老体には重過ぎる責を負いながらも、冷静に自分の出来ることを見定め、淡々と任を果たす主人公の姿こそが、作者の提示する「強さ」なのであり、一つのヒーロー像なのだろう。終盤のゲシュタポとの対話も心に残る。
 この小説が、まだ戦争の終わって無い1942年に出版されたというのには驚く。ロンドン空襲のさなかに書かれたこの小説は、空襲のシーンから始まり空襲のシーンで終わるのだ。また、ドイツ人は物語上の悪役ではあるのだが、あくまでも人間性を持った存在として描かれている。それだけでなくこの小説にはイギリス人、ドイツ人、フランス人、オランダ人、ユダヤ人とヨーロッパ各国の人々が登場するのだが、どの国民に対しても比較的ニュートラルな視点を保っているように感じられる。もちろんその一方で、強制収容所や戦争孤児の悲惨、イギリス空軍による誤爆被害など戦争による無残な光景も、冷静な目で描写するのを忘れていない。こういう小説が戦時下に出版されベストセラーになるというところに、自分はヨーロッパの人々の持つ(日本人にとっては、ある種異様ととも思える様な)精神の強さを感じるのだ。