『意識とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』下條信輔

「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤 (講談社現代新書)
今年になってから、脳と意識の問題について興味が湧き、いくつかの本を断続的に読んでいる。『内なる目―意識の進化論』ニコラス・ハンフリー、『意識とは何か―科学の新たな挑戦』苧阪直行、『唯脳論』『ガクモンの壁』養老孟司に続いては、この本を。
新書だからサクサク読めたが、内容は恐ろしく刺激的。似た題名の『意識とは何か』が脳科学による実験的、臨床的な事例から意識という問題に迫っていたのに対し、こちらの方はどちらかと言えば哲学的、というか思考実験的なアプローチを用いて切り込んでいる印象だ。むろん、あくまで最新の脳科学の研究成果を踏まえた上で、だが。
書名にあるように、著者は様々な「錯誤」現象を通じて意識に迫っていく。例えば縮小し続ける同心円模様をじっと見つめた後、周りの風景を見ると、まるで周りのものみな拡大する様に感じられる。これは縮小同心円の環境に脳が適応した結果であって、知覚の適応という観点から見ると、あくまで正常な反応である。この様に、意識は直前の、ひいては誕生後経験した様々な環境の記憶とダイナミックな結びつきを持って存在している……いや、むしろ、環境と脳との「関係」こそが記憶なのであり、そうした関係の総体を、著者は「来歴」と称している。「来歴」抜きでの独立した記憶や意識などというものは存在しない。従って、仮に脳から「記憶」を取り出して他人に移植したとしても、意味は分からなくなってしまうだろう(あたかも聞いたことの無い異国の言葉の様に)。もちろん、脳の「来歴」を示すコードも共に移植したら、理解可能になるだろうが、そうしたら、脳をそのまま移植してしまうのと、つまり人格まで他人になってしまうのと同じである。
そして、そうした「来歴」の貯蔵庫が「無意識」である。「意識」とは無意識の中から、何物かを「見出し」「気付く」ことに他ならない。従って、意識というのは連続している必要は無い!むしろ断続的なものと考えた方が分かりやすいという。

そもそも、発見や洞察がなされたというのは、その解法を意識できた時点をさすわけです。その前の段階では無意識の水面下で「来歴」が持続的に作用し、意識の「周辺」を形成していたはずです。これが「地」として潜在的に形成されたからこそ、発見が「図」として浮かび上がったのです。
(p206)

いわゆる「ゾンビ」論―我々の思考の本質は機械的決定論的に行動する意識の無い「ゾンビ」であり、「自意識」は本来の思考のエコーの様なものに過ぎない、という考え方。実験的な見地からはこの考えを肯定するような結果が出ている―に対しては、どうしてもある種の恐怖を感じてしまう。しかし、この論に従えばその恐怖は的外れなものであると言うことなのだろう。無意識と意識は地と紋の様なもので、この二つを分けて考えること自体が、間違っていることなのだから。
最終章、プロザック騒動などの例を引きながら著者が思い描く未来像は実に強烈で、バイオテクノロジーなどに比べれば目立たないものの、今、この分野でとんでもないことが起こりつつあることを実感する。おそらく我々の倫理も大きく変貌していかざるを得ないだろうが、著者の真摯な態度はこの問題について考える上で参考になるだろう。とにかく短いなかにも、目から鱗が落ちるような論がいくつも詰まった本だった。おススメ。