「地球に落ちて来た男」ウォルター・テヴィス

地球に落ちて来た男
 滅び行く惑星から、小さな宇宙船に乗って地球に来た男、ニュートン。彼は、たった一人で故郷のアンシア人を、そして地球人を破滅の危機から救うためにやって来たのだった。
 デビッド・ボウイ主演の同名映画の原作。
 まず、映画では分からなかった(またはオミットされていた)設定が、小説では明確に描かれているのが興味深い。例えば、地球もまた世界戦争により破滅の危機にあること、アンシア人の故郷が火星であること等。ただ、細かな違いはあるものの、ストーリーはほぼ同じである。
 しかし、読後感は映画のそれよりも暗い。メランコリックな物語が苦手な人は読まないほうが良いと思われるくらいに。実を言うと、自分も読後、かなり欝な気分になってしまった。
 映画版ではニュートンの目的は、故郷から家族を連れてくること、というくらいしか分かっておらず、会社を興すのも、あくまで宇宙船製造のための資金稼ぎという位置づけだった(その製品が地球の文化に影響を与えるのは予期せぬ副産物の様なもので、彼自身はそれを意図した訳では無い)。全般的に映画版の主人公は、無垢で無力で受身的な存在として描かれている。また、中年になったメリー・ルゥが、いつまでも青年のままのニュートンに会うシーンが象徴するように、映画版では、主人公の悲劇と、青年期に特有の孤独感を重ね合わせて描かれている。だからこそ、地球に一人でやってきた宇宙人の物語に、センチメタルに共感することが出来るのだろう。
 一方、小説版を読んで分かるのは、主人公が、明確に自分の影響を意識して行動していることだ。アンシア人は、地球人を裏から「管理」する必要があると考えており、世界を一変させることも彼の目的の一つである。だからこそ、主人公の諦念は、映画版以上に重く感じる。それを象徴するのが宇宙船の扱いで、映画では政府(?)の手により爆破されていたが、小説ではニュートン自ら放棄してしまうのである。アンシア人への決別のメッセージを込めながら。
 「猿の群れ」である人間社会からも、自分を地球に送り込んだアンシア人社会からも疎外される主人公。二つの世界を救う可能性があったのに、そしてそれを信じていた事もあったのに、最後には、ただのアル中として日々を無為に過ごすだけとなった、彼の孤独と諦念はあまりにも重い。
 ところで、この小説を読んでいる時に連想したのは、アラン・ムーアのアメコミ「Watchmen」だった。結構影響を受けてるんじゃないかな。ニュートン=オジマンディアス+ドクター・マンハッタンという感じか。