「キリスト教を問いなおす」土井健司

キリスト教を問いなおす (ちくま新書)
 キリスト教徒は口では愛だの平和だの唱えながら、どうして世界中で戦争や殺伐を繰り返すの?一神教徒ってなんで他宗教に不寛容なの?善い事をした人が不幸な目に遭って、悪い事をした人が幸せに一生を終えたりすることがあるけど、神なんてのがいるならば、なんでこの世はこんな不条理な事で満ちているの?
 非キリスト教徒で(いや、クリスチャンであっても)この様な疑問を抱いた人は多いと思う。この新書はクリスチャンの立場から、これらの疑問に答えようとしたものである。
 著書は、神は人間同士がその立場(民族や仕事、家族関係など)から離れ、純粋に「わたし」と「あなた」として向かい合うための「場」であると規定する。従って、人間をキリスト教徒と非キリスト教徒に分け、片方を敵とする様な考えは、例えキリスト教会のものであっても本来のイエス・キリストの教えから離れているのである。
 本書で最も印象的だったのは、ナチスに抵抗して処刑された神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーの言葉を引いた次の個所だった。

 ボンヘッファーはこの世界を「成人になった世界」と捉えています。それは子供の時代を脱した世界です。何よりそれは、キリスト教が罪責や死によって人を怖れさせ信じさせる時代が終わったということを意味しています。そのことを表現するのにボンヘッファーは「宗教の時代」が終わったという言い方もしています。「宗教の時代」が終わり「神」が人々に信じられなくなることによってはじめて、真の神との新しい関係が築かれ得る。ボンヘッファーはそう考えていたのです。四四年七月十六日付の手紙では次のように書いていました。「成人した世界は神を喪失した世界である。そしておそらくその故に、未成熟の世界よりもいっそう神の近くにいる」
 ここでボンヘッファーは、「成人した世界」で失った「神」は真の神ではなく、そのような神を喪失したがゆえに、真の神との関係が可能になると言っています。
(p138)

 この本が非キリスト教徒からどう受け取られるかは良く分からないが、むしろクリスチャン自身が信仰を「問いなお」し再確認するのに、良いテキストとなり得るんじゃ無いかと思う。