『日本の無思想』加藤典洋

日本の無思想 (平凡社新書 (003))
日本人の思考の特異さを表す言葉として、「タテマエとホンネ」とは良く聞く言葉。でも、本当なんだろうか?……という疑問から出発して、「日本」や「近代」の抱える「嘘」を浮き彫りにしていこう、という趣向の本。かなり面白かった。
古代ギリシャにおいて、家庭などの自然発生集団をその基とし、経済活動を担う「私」と、公共空間で議論や政治活動を行う「公」は明確に区別されたものだった。中世においても「公」は宗教空間にその位置を譲り、性格を大きく変えたものの、「私」とは区別されうるものだった。しかし近代に至るにつれ、「私」の領域にあった経済活動が公共空間に侵食して来、「公」は消失する(代わりに、経済活動をも含めた新しい領域「社会的なもの」が誕生する)。かつて、「公」の場において議論されることは一切「私」の介入する余地の無いはずのものであり、そこでの言葉は絶対であるべきだった。しかし、今やどんな高潔な言葉にも、その裏にあるかもしれない「私」―私情や私利私欲―の存在を見出し得る状態だ。それにも関わらず、我々は未だに「公」なるものが無条件に存在するかのように振舞っている……これが、著者の言う「近代の嘘」である。
では、どうすれば良いか。ギリシャの昔に戻ることは出来ない。そもそもそこでの「公」は奴隷制により、成人男性が経済活動をしなくても良い、という今では到底不可能な条件化でのみ存在しうるものだったのだから。むしろ、もはや「私」抜きの「公」など存在しないということを直視すべきだ、と著者は提言している。

現実に形をとる公共性は、愛国心もボランティアも市民的共同性も、すべて中途半端な公共性です。しかしそれは、だから公共性は信じるに足りないということを意味しているのでは毛頭ありません。(中略)そこでは人は、自分の公共性が私的存在にすぎないことを強く自覚する限りで、ようやくこの中途半端な公共性のうちに含まれる公的性格を、生きるでしょう。
(p245)

ルソーやカントの思想的な歩みを例に引きながら、私情や私利私欲を肯定し、その上に新しい「公」を築くべきだとする著者の主張は、明快で分かりやすかった。……もっとも、どうしたらそんなことが出来るか、肝心要なそこまでは著者は踏み込んでいないのだが。まあ、それを解決しうる思想を提示できたら、ロックやルソー以上の大思想家だ、てなものだし。とりあえず、世に満ちている欺瞞に我慢がならない、でもニヒリズムに陥るのは嫌だ、という人は、是非、読んでみると面白いかも。色々と腑に落ちる点が多いと思うよ。