「フルハウス−生命の全容 四割打者の絶滅と進化の逆説」スティーヴン・ジェイ・グールド

フルハウス 生命の全容―四割打者の絶滅と進化の逆説
 イチローが年間最多安打記録をマークしそうだということで、マスコミがかまびすしい昨今。これだけ報道されると、俺みたいに野球に興味の無い人間でも、ついつい気になってしまう。ところで、報道を見ていておや、と思った人も多いと思うけど、ジョージ・シスラーはじめベストテン内、全て1920年代の記録なんだよね(当然イチロー除く)。昔はそんなに凄いバッターが多かったのかな、と思ったところでこの本を読んでみた。
 断続平衡説で有名な、古生物学者にして進化生物学者であるグールドによる科学エッセイ。大の野球好きとしても知られる著者らしく「大リーグにおいて、四割打者がいなくなったのは何故か?」という謎を掴みとして、偏見がいかに統計を見誤らせるか、そしてそれが進化に対する、ある誤解を生み出していると説き起こしている。

四割打者の絶滅 このことについて「バッターのレベルが昔より低下した」とか「ルール改正で、攻守のバランスが変わった為」などという(良くある)考えを、グールドは否定する。そうでは無く、攻守を含めた全体的なレベル上昇により、選手間の差が小さくなり、それだけ突出したプレイが少なくなったためなのだ。要するに、統計の中でも極端な値(この場合は四割打者)にだけ注目すると、全体のトレンド(全体的なレベルの向上)を見誤ってしまうということを、著者は強調する。
進化の逆説 進化に方向性など無く、良く言われているような「単純なものから複雑なものへの階梯」といったイメージは誤解に過ぎない。例えば生命の歴史の記述において「恐竜の時代」「哺乳類の時代」「人類の時代」といった区分けをされることが多い。しかし生命の誕生から現在に至るまで、数の上でも種類の上でも生物界での最大勢力は、もっとも「複雑さの小さい」生物であるバクテリア原核生物)であり、地球は一貫して「バクテリアの時代」であり続けたのだ。そう見えないのは「四割打者」の例の様に「複雑さの高い」生物への特別視が、全体のトレンドを見誤らせるためである。
 進化には、複雑性の向上といった方向性など無い。酔歩の原理*1により、ランダムな進化から複雑性の高い生物が生み出されることはあっても、それは生物の多様性の裾野が広がったということであり、主流を占めるのは、常に複雑性の低い生物であり続けるだろう。


 進化については、自分自身「階梯を上るようなイメージ」など、とうの昔に捨てている。むしろ以前から、中心(原初の生命)から四方八方へ展開していくようなイメージの方が相応しいだろう、とも思ってたくらいだが、それでも、統計の観点からこの問題を説き起こしてみせた本書には、考えさせられる所大だった。まして、昔ながらのイメージで進化について考えている人には、結構インパクトがあるんじゃなかろうか。最近でも「進化論が本当なら、単純な生物が今でも生き残っているのは何故だ」という(間違ったイメージからの)疑問を目にしたことがあるし(しかも、れっきとした生物学の教授が書いた本で!)、この種の誤解は本当に数多い。
 ただ複雑性について、あまりにも軽んじすぎてるんでは無いか、という気はする。「複雑な生物」が生物多様性の裾野…言わば周縁部に位置するものであることに異存は無いが、マスに注目してバクテリアを重要視するか、複雑さに注目して人類を重要視するかってのは、要するに考え方、見方の違いに過ぎないように思う。つまりプラトー(頂点部)を視るか、それとも輪郭(周縁部)を視るか、ってこと。もっとも著者自身、そんなことは承知の上で、あえて極端な言葉を使っているのだと思うけど。
 本書を読んで、改めて統計の取り方を意識させられた。「平均値」って便利だし分かりやすいから、ついつい考え無しに使ってる例、良く見るもんね…と、自戒も籠めて。

*1:左側に壁、右側に溝のある道を想定する。ここを、ランダムに左右にふらついている酔っ払いが通ると、いつか必ず溝に落ちてしまう。これは壁が左方向への動きを制限するためである。この様に完全にランダムな動きをする事象でも、条件によっては方向性があるように見えることがある。