「養老孟司 ガクモンの壁」*9月23日の続き

 ん〜、忘れないうちにφ(..)メモメモ

 能力は、エネルギーではなくて特定の情報処理プロセスという見方をした方が、よりよく理解できることも多いのでは無いかと思います。
p99(安藤寿康)

 個人個人の能力にあった教育とは何か、という話題で。思わず膝を打った表現。

目から入ったサインと耳から入ったサインが同じになるのが近代言語です。しかし、おそらく歴史的には聴覚言語が先行しているわけだから、かつては言葉をしゃべるとき別な形で脳を使っていたに違いないという気がします。(略)言語の場合、アイコンは必ずそのアイコン性を失ってくるんです。なぜかというと、言語として用いるわけですから、視覚でなければわからない性質を文字に入れると、脳の処理に非常に負担をかける。
p228(養老)

 言語とはまず音声ありきで、「文字」はあくまで「音声言語」に追従するものと、考えがちだ。しかし(文字を習得した人間にとっては)脳内において視覚(文字)と聴覚(音声言語)共通で情報処理を行うものだ、という事実は面白い。それが脳が情報処理するにあたって、もっとも効率が良い方法だからだろう。

ワーキングメモリーは思考とか言語、推論、意思決定、あるいは計画といった、いわゆる精神活動の基礎になっています。
p248(澤口俊之)

 ワーキングメモリーとは短期記憶のこと。このメモリ問題は、「意識とは何か 科学の新たな挑戦」でも取り上げられてたので良く覚えてる。で、このワーキングメモリーを発達させたのは、社会活動と言語である。ニコラス・ハンフリーの「内なる目」では、社会活動が「自分の心を準拠として他人の心を推察する」必要性を生じさせ、自我の誕生の礎になったと結論付けていた。
 さて、大脳新皮質神経細胞は「コラム」と呼ばれる単位構造を持っているが、

 一番単純な例が「高い」という言葉。空間的な意味でも高いというし、音も高いと表現する。(略)結局、アナロジーですよね。コラム構造を持っていると、アナロジーをつくりやすいということです。
p259(養老)

 脳内の神経の配置(コラム構造)というミクロな物理的事象が、アナロジーという高度に「文化的な」モノを生み出してるという指摘。これがどれだけ根拠のある言葉なのか分からないが、なんだか想像力を刺激する話ではある。