『失われた宇宙の旅2001』アーサー・C・クラーク

 キューブリック監督によるSF映画2001年宇宙の旅』とクラークによる同題の小説の関係は複雑だ。映画版は(クラークの短編「前哨」を構想の基としているものの)小説版を映像化したものでは無いが、しかし小説版が映画版のノヴェライゼーションという訳でも無い。キューブリックとの協議を基にクラークが小説版を書き進め、それを今度はキューブリックが映像化していく。小説版と映画版は同時進行的に作られており、兄弟の様な関係と言うのが一番実情にあってるかも知れない。
 この本は上記の様な製作過程で、膨大な量生み出されては廃棄されていったクラークの没原稿を載録したものである。あり得るかもしれなかった別バージョンの『2001年』の片鱗を知りうることが出来て、とても興味深い。クラークによる当時の回想を挟んではいるものの、小説部分だけで文庫本一冊分の分量があり、しかも物語の時系列順に並べてあるためこれだけでも一つの小説として読むことは出来る。とは言えやはり小説版、映画版を両方鑑賞した後でなければ本当の面白さは味わえないだろう。一種のメイキング本とも言えるが、一冊の本としてどうにも焦点の定まらなかった『メイキング・オブ・2001年宇宙の旅』なんかよりはずっと面白く読めた。
 面白いのは小説版には無くて、映画版のみに見られるイメージのいくつかが、没バージョン原稿の方に見られること。例えば小説版でスター・ゲートを潜り抜けた果て、ボーマン船長は赤色巨星に降下するのだが、映画版では惑星の様なものの表面を飛んでいるようなイメージである。これは没バージョンのイメージの方が近い。またその後、映画版ではボーマン船長がスペースポッドの中にいるもう一人の自分を見つめる描写があるが、これも没バージョンの方にその原型を見ることが出来る。
 映画・小説ともに最後まで明示されなかったモノリスの製造者は、旧バージョンでは異星人クリンダーとしてはっきりと姿を見せ、モノローグまでこなしてみせる。最終的にディスカバリー号の組み込みコンピュータとして登場することになったHALは、旧バージョンではソクラテスという名の人型ロボットである。そしてスター・ゲートの先に現れる、宇宙中から集められた多種多様な生命が共存する理想世界の驚異的ビジョン。旧バージョンのみにある魅力的な要素は多いが、今となっては正直古臭くなってしまっていたり、または当時の特撮技術では再現不能だろうと思われるものばかりである。そういう意味ではこれらのバージョンを没にしたキューブリックの判断は正しかったと頷かせられる。何を描写し、何を描写しないか。明示するものとしないものとの線引きが、この映画が今でも褪せない神話的魅力を保ち続けている秘密の一部ではあるのだろう(ただ、それでもやはりスター・ゲート世界は、小説版のイメージで何とかならなかったものかとは思うが……例え予算が尽きかけてたとはいえ、あそこはイメージ映像で誤魔化しちゃあ大無しだ)。